2012年4月1日日曜日

戦後世代に戦争責任はあるのか

今週の国際関係についてのトピックは「戦後世代に戦争責任はあるのか」という質問だった。読み物によると、「当事者でないから反省なんかしない」、「前世代の負債を相続」と「コミュニタリアンの責任論」という三種類の意見がある。

まず、私は「当事者でないから反省なんかしない」という意見に反対している。もちろん、民主主義という点から考えると、戦後世代は戦争の参加者でなく、謝るべき理由がない。でも、戦後世代は責任がないわけでもない。もし自分の過去の戦争に対する責任を忘れてしまったら、親世代が戦争で犯罪したことも忘れてしまい、反省しなければならないことも忘れてしまうだろう。

そして、「前世代の負債を相続」という意見の中で、私は一番賛成するのは、戦後民主主義のオピニオン・リーダーだった加藤周一氏が言った「間接の責任」という意見だ。
加藤周一氏は<戦争のあとで生まれた人に戦争の責任があるのか、あるいは戦争犯罪を含めて責任があるのか。私は直接には、まったくないと思います。(中略)自分が生まれる前のことをコントロールしようがない。責任を取るということに関する近代法の基本的な考え方は、意思の自由が保障される場合の行動に限るわけです。>と明言した。一方で、政府の世論操作に弱い、横並びの大勢順応主義、鎖国心理、差別意識など戦争と戦争犯罪を生み出した社会的、文化的条件の一部が現在も存続していることには、「間接の責任」がある。
となると、侵略戦争を生み出したのは、日本人の「血」でなく、大勢順応主義、鎖国心理、差別意識など戦争犯罪を生み出した社会環境だったということになる。したがって、日本の戦後世代は、戦争責任を取るより、自分の社会問題をよく研究し、教育を改革し、そのような社会的、文化的問題を解決するのはもっと肝要なのではないだろうか。

最後、「コミュニタリアンの責任論」の西部氏は個人を超えた共同体の慣習などが個人を拘束すると主張した。たくさんの心理学の実験結果も彼の意見をサポートしたので、私もそれが正しいと思う。でも、この正しい意見に対し、私はまだ心配がある。もし誰も「これがコミュニティーの問題だから、私は解決できない」と思ったら、この社会にどのような変化もないだろう。つまり、大勢順応主義が存続したら、日本の社会問題は解決できない。コミュニタリアニズムという論点は正しいが、個人にとって消極的な影響があるかもしれない。なぜなら、どのような視点から考えても、個人的に謝る責任がないだろう。でも、するべきことは絶対ある。したがって、責任論より、「日本社会を改革するため、どのような努力が必要なのか」という討論はもっと大切だと思う。

3 件のコメント:

  1. そうですね。「コミュニタリアンの責任」というのは正しいですが、すべとの戦争中の残虐行為の言い訳として使っては行けません。個人は巨大な社会のただ一員ととして、できることがあまりないですが、全然ないという訳じゃありません。結局社会はたくさんの個人のコレクションです。皆は変えようとすると、社会の風気も変えられると思います。

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  2. そうですね。私は基本的に過去のことについて謝罪するべきかしなくても良いかを判断するのは個人の価値観や判断に任せたいです。しかし、このような判断をするためにはまず歴史の事実を回避せず対面しようとする努力をしなければなりません。一応歴史の真実を求めようとして過去のことについてちゃんと分かった後自分にも責任があるか昔の間違いを未来にリピートしないためにはどのような社会の変化が必要なのかについて考えなきゃね。このような努力さえせず単純に責任があるどうかさえに関心がないというのはちょっと問題だと思います。

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  3. そうですね。私はウェンさんの意見がよく分かると思います。確かに、戦後世代は生まれる前のことをコントロールしないが、現在できる事は重要ですね。それは国内の社会問題です。

    中国で、文革に対して同じような議論があるでしょうか。私は興味を持っています。

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