2012年4月29日日曜日

「ああ祖国よ」・不思議な設定と現実

先週星新一の「ああ祖国よ」を読んだ。簡単に紹介すれば、アフリカにあるパギジア共和国(実在しない)が建国してからすぐ日本に宣戦布告し、たった2隻の漁船程度のものに乗って日本に攻めてくると言う話だ。主人公がいるテレビ局はこの小さい事件を利用し人気番組を作った。政府がなかなか対応策の結論を出せず、結局大金を払って取引をする事になった。そして、また、次の小国が日本に宣戦布告してきた。。。

初めて星新一の小説を読んだのではないが、「愛用の時計」と「ボッコちゃん」を読んだことがある。同じようにショートショートのスタイル(特に不思議な設定、考えられないオチ)を使っているが、「ああ祖国よ」の方はもっと現実感がある上に、微妙に著者の自分の感情を含めていると思う。

まず、なぜ「ああ祖国よ」を読んだ時よく現実感が出るか。

日本人の特徴と日本政府の特徴をよく描写したので、現実感がよく出ると思う。まず、メディアで働いている主人公は「戦争だ」と聞くと、「ベッドから飛び出す」、「核弾頭、ミサイル、焼野原、すべての死」、また「遺書」や「貯金」や「死ぬ前に外国旅行もしたい」と思うようになった。その主人公の反応は直接日本人の戦争に対する態度を表しているのではないだろうか。特に第二次世界大戦の後、日本の一般人にとって戦争に対する印象は日本が戦場として経験したことだろう。つまり、日本人は誰より戦争が怖いものだと思い込んでいるだろう。「進学戦争」、「住宅戦争」のような言葉もよくある。中国語で戦争比喩はあまりそのように広く使えない。戦争歴史によって日本人がどのような怖いものにも「戦争」の比喩を付ける傾向になったのではないだろうか。

普通の日本人の性格を表す上に、星新一はまた政府の無能で無決断な特徴をよく表現していると思う。日本政府は本当に小国へ一億ドルの賠償金を払う可能性はあるのか?それは現実的じゃないだろう。賠償金を払うのは、実際日本だけでなく世界で外交手段としてよく使われることだと思う。例えば、中国政府が世界で台湾を国として認めないようにたくさんの国へ大金を払った。でも、この小説にある一億ドルの賠償金は、日本政府がアメリカとの繋がりを維持するためにどんな犠牲も払えるという意味がある。アメリカとの繋がりの必要性はまず日本政府が戦争を避けるためだろう。前のブログで書いた在日米軍の問題も、日本政府が何十年間をかけて、やっと移転問題の結論が出せたのだ。したがって、日本政府の決断力がないという事実はこの小説で戦争の対応策を出す過程でよく表現されていると思う。

星新一の衆議院議員の父親・星一
そして、「ああ祖国よ」という小説の名前を見ると、すぐ著者の感情を感じるだろう。小説を読み終わった後、星新一が言いたいのは「ああ祖国よ、なぜあなたはそんなに弱いのか」ということなのではないかと思った。しかし、気になったのは、星新一が一般的にテクノロジーに関する小説を書く時全然自分の感情を入れないことだ。なぜ政治に関する小説を書くとき自分の感情も入れるかと言うと、私の推測だが、彼の父親星一が衆議院議員だったからではないだろうか。調べてみれば、彼の父親は1908年に初めて衆議院議員に当選し、また1937年と1946年に二回衆議院議員に当選した。第二次世界大戦戦後すぐ議員になった家族で生まれた星新一は、よく日本のアメリカへの依存関係を感じただろう。政府の無能に対し怒ってもできることがない。したがって、政治に関する小説を書く時、強い感情を表現したのではないだろうか。

2012年4月22日日曜日

「大地の子」の結末の意味

今週は「大地の子」の最終回を見た。本当の父親と一緒に長江三峡の絶景を見た時、別れの言葉を言った。
「大地の子。大地の子です。私はこの大地の子です。この中国の大地が、私の父なんです。母なんです。」父の目に涙が溢れたようだった。きっと父はこの言葉が永遠の分かれの言葉を知ったのだ。
  「永遠の別れ」という言葉は実際フィジカルな別れでなく、心理的な別れだと思う。その場面を見た私は一人のアイデンティティが何によって定義するのかについて、新しい見解を見つけた。血ではなく、国籍でもなく、その国の山と川などの自然に対する感情だ。このような感情は特別な人に対する感情ではないので、実際この土地に対する誠実な感情だ。日本で富士山の詩がたくさんあるだろう。日本人は富士山を見るとき、自分の母を見るときと同じように感動して、そして感謝する気持ちがあるだろう。中国人も同じだと思う。何千年前から、三峡の美しさを歌った詩はたくさんあった。自分の祖国の一番大きい山と川を見るとき、感動する気持ちはどのような憎みも悲しみも超えさせると思う。私は富士山を見るとき、「美しいなぁ」と思うが、三峡の山と川を見るとき、「この土地は私の母だ」と思うように感動してしまった。つまり、外国の自然を見るときと祖国の自然を見る時、自分の感じ方も変わってしまうと思う。
富士山
三峡


 陸一心の場合も同じなのではないだろうか。富士山を見た時、自分の小さい時のことを思い出した。彼が富士山を見た場面は三峡で父親と永遠に別れた場面の伏線だろうと思う。富士山は日本人の血を持っている陸一心と彼の日本についての記憶の絆だが、三峡は彼の祖国の大地への愛情と感動を含んでいるのではないだろうか。ある中国の詩人艾青(アイ チン)は「この土地を愛している」という有名な詩を書いた。「私の眼はどうしていつも涙を湛えているのだろう。それは、私がこの土地を深く激しく愛しているからだ」。陸一心もこの土地に対し、涙が溢れるほど愛していたのではないだろうか。

2012年4月15日日曜日

父親の気持ち

今週は大地の子の第八部と第九部を見た。陸一心の本当の父親松本と会った時、養父の陸徳志はこう言った:
「松本さん、言い難いでしょうから、申し上げますが、今日来られたのはもしや一心を返して欲しいと。。。今あなたが一人暮らしをされていると伺って、何年もわが子を思ってこられた。お気持ちの強さが分かりました。もし、あの子を返してと言われるのなら、私は構いません。」

初めてこの場面を見た私は、世の中でこのような養父がいるかと自分自身に聞いた。信じられなかった。私の祖母は1931年生まれ、抗日戦争の時本当の親と別れてしまった。養父母は家を手伝う人だったが、死ぬまで彼女に本当の親のことを教えてくれなかった。祖母の親の行動が普通の一般人の行動だと思う。それに対し、陸徳志の発言はふつうではないのではないだろうか。

陸徳志が日本人孤児を一生懸命育てることも一般人にとって不思議だろう。その不思議さは山崎さんがくれた陸徳志の魅力だと思う。誰よりも優しい。日本人孤児が何の罪もないと思うので、育ててあげた。一人暮らしの父親の気持ちを誰よりもわかるので、陸一心を返してと言われるのなら、構わない。この設定が可能な要因は、陸徳志の教師としての身分と関係が深いと思う。

陸徳志は「これからあなたが一緒におすごしなさい」と言った原因は、彼が息子の陸一心を愛しているからだと思う。中国の儒教文化によると、孝(こう)は中国の伝統的な道徳の中で一番重要な点だとも言える。そのため、儒教の影響を受けていた陸徳志は一心が一人暮らしの本当の父親の世話をするべきだと思っているかもしれない。彼が松本に提言したのは、一人暮らしの松本のためだけでなく、松本の世話をする責任を持っている陸一心のためだろう。

2012年4月9日月曜日

日本天皇・靖国神社・戦争責任

今週の論点は、天皇の存在の理由とは何か。

第二次世界大戦の後、ドイツはきちんと謝罪したが、同じような敗戦国の日本は謝罪しなかった上に、靖国神社参拝をまた続けていた。私の小さい頃、小泉首相は二度総理大臣の身分で靖国神社参拝を行った。それが原因で、中国国内で大規模な反日行動が始めた。毎日日本大使館の外でボイコット運動をした人は何千人以上もいた。暴力を含んだ行動もあった。例えば、日本産の自動車(トヨタ、ニッサンなど)を壊したり、日本ブランドのコンビニ(ローソンなど)がボイコットされたこともあった。中国国内の世論によると、日本の総理大臣が靖国神社参拝を行うのは侵略戦争を反省をせず、軍国主義を記念するためだった。天皇と国民の関係を理解できなかった私は、いつもそれが靖国神社参拝の理由だと思った。

しかし、東條英機の命と引き換えになった天皇の不起訴を読んだ後、私の意見が変わった。日本人が戦争責任を認めなかったその原因は天皇が戦争責任を認めなかったからだと思うようになった。今の天皇は政治と関係なくなったが、第二次世界大戦時代の天皇は戦争の会議に参加し、国民の戦争動員も主導した。つまり、戦前時代の人間は天皇のために必死に戦ったのではないだろうか。敗戦した後、天皇が人間宣言を発表したが、当時の国民はまだ天皇の命令を最高のものとして遵守した。日本人にとって、処刑された七人のA級戦犯は天皇を守るために犠牲になった英雄になったのではないだろうか。天皇は謝罪をせず、敗戦国としての日本も反省するわけがない。したがって、戦後日本人全体が戦争について反省するための必要条件は東條英機の処刑でなく、天皇の反省と謝罪だと思う。

2012年4月8日日曜日

鋼鉄会社のモデルから見る中国の中央企業

今週は「大地の子」・4を見た。

先週著者の山崎さんが文化大革命をよく描写したことについて感想を書いた。今週のエピソードで気になったのは、山崎さんは鋼鉄会社の業務もよく描写している点だった。まさかモデルがあるかなと思って調べてみた。

ドラマの中で描写された上海に建設された新しい鋼鉄会社は、実際宝鋼集団有限公司という上海にある鋼鉄会社だ。証拠は「上海で建設する新しい鋼鉄会社」と「日本からの技術支持をもらった」という二つの点だ。技術支持の東洋製鉄のモデルは、新日本製鐵という有名な会社だった。ドラマの中で東洋製鉄の社長から会長になった稲山会長という「周恩来総理の友」は、実際稲山嘉寛という新日本製鐵の社長だった。彼が退任した時、ドラマと同じように「第5代経済団体連合会(経団連)会長(1980年 – 1986年)」になった。宝鋼集団の「高炉火入れ」は1985年9月のことだったので、ちょうどドラマの中で延期された高炉火入れの時間と同じぐらいだろう。

私が興味を持っているのは、鋼鉄会社のモデルだけでなく、中国国有企業の発展だ。中国の国有企業は、大体中央企業と地方企業の二つの種類に別れている。宝鋼集団は中央企業なので、北京からの支援をたくさん貰った。どうして中国が中央集権的な発展方法によって、二十年間で世界第二の経済大国になったかというと、中央企業が大きく貢献したからだと思う。例えば、建設されてから四十年ぐらい経った今、宝鋼集団は世界八位の大きい鋼鉄会社になっている。それは多分著者の山崎さんも考えられなかったと思う。

このドラマにある中日談判は両方の個性がよく描写されていたので、中国企業の特徴もよく出ていた。どうして中国の中央企業がそのように速く発展できるかというと、このドラマから見ると三つの理由があると思う。まず、現金をたくさん持っているので、世界一流の施設を買うのは問題なし(談判した時、現金で全部を一回払うので、二割安くなっただろう)。そして、住民を移転させるのは他の国より簡単なので、敷地の問題もなし。しかも、人件費が安いし、また多いので、普通二年間の建設は一年間で終わることもできる。したがって、「大地の子」は歴史だけでなく、経済的に細かいことも大局的なこともよく描写していると思う。そのため、「大地の子」は政治的に歴史の問題を描写する上に、また経済的に現実感もあるのではないだろうか。

前の相関文章:
大地の子3・文化大革命の傷跡・奪われた人間の信頼関係
中国の経済発展・利益共有はもっと大切だ

2012年4月1日日曜日

戦後世代に戦争責任はあるのか

今週の国際関係についてのトピックは「戦後世代に戦争責任はあるのか」という質問だった。読み物によると、「当事者でないから反省なんかしない」、「前世代の負債を相続」と「コミュニタリアンの責任論」という三種類の意見がある。

まず、私は「当事者でないから反省なんかしない」という意見に反対している。もちろん、民主主義という点から考えると、戦後世代は戦争の参加者でなく、謝るべき理由がない。でも、戦後世代は責任がないわけでもない。もし自分の過去の戦争に対する責任を忘れてしまったら、親世代が戦争で犯罪したことも忘れてしまい、反省しなければならないことも忘れてしまうだろう。

そして、「前世代の負債を相続」という意見の中で、私は一番賛成するのは、戦後民主主義のオピニオン・リーダーだった加藤周一氏が言った「間接の責任」という意見だ。
加藤周一氏は<戦争のあとで生まれた人に戦争の責任があるのか、あるいは戦争犯罪を含めて責任があるのか。私は直接には、まったくないと思います。(中略)自分が生まれる前のことをコントロールしようがない。責任を取るということに関する近代法の基本的な考え方は、意思の自由が保障される場合の行動に限るわけです。>と明言した。一方で、政府の世論操作に弱い、横並びの大勢順応主義、鎖国心理、差別意識など戦争と戦争犯罪を生み出した社会的、文化的条件の一部が現在も存続していることには、「間接の責任」がある。
となると、侵略戦争を生み出したのは、日本人の「血」でなく、大勢順応主義、鎖国心理、差別意識など戦争犯罪を生み出した社会環境だったということになる。したがって、日本の戦後世代は、戦争責任を取るより、自分の社会問題をよく研究し、教育を改革し、そのような社会的、文化的問題を解決するのはもっと肝要なのではないだろうか。

最後、「コミュニタリアンの責任論」の西部氏は個人を超えた共同体の慣習などが個人を拘束すると主張した。たくさんの心理学の実験結果も彼の意見をサポートしたので、私もそれが正しいと思う。でも、この正しい意見に対し、私はまだ心配がある。もし誰も「これがコミュニティーの問題だから、私は解決できない」と思ったら、この社会にどのような変化もないだろう。つまり、大勢順応主義が存続したら、日本の社会問題は解決できない。コミュニタリアニズムという論点は正しいが、個人にとって消極的な影響があるかもしれない。なぜなら、どのような視点から考えても、個人的に謝る責任がないだろう。でも、するべきことは絶対ある。したがって、責任論より、「日本社会を改革するため、どのような努力が必要なのか」という討論はもっと大切だと思う。