2012年9月30日日曜日

言語教育とは何か(for class)


先週、外国語教育について書いたが、今週そのトピックを続け、言語教育について述べたいと思う。
 言語教育は、外国語を勉強することだけではなく、自分の国の言葉の勉強も必要だ。その定義から見ると、言葉を使って自分の意見を表す方法はどの言語を使っても同じだ。どうしてハイコンテキストとローコンテキストの違いがあるかというと、意見を表す方法は言葉だけではないからだと思う。国際的な交流を促進するために、相手が自分の文化を理解できなくても分かってくれるように、その文化の壁を越えなければならない。私が英語を勉強し始めた時、良くアメリカ人のスピーチ(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、エイブラハム・リンカーンなど)を勉強した。その時の私は、まだアメリカの歴史について何も知らなかったけれども、そのスピーチを聞いてから自由と平等という主張を理解できて、感動してしまった。逆に、現代中国で教材として利用できるスピーチは全くない。その原因は、アメリカ人の多民族文化が中国より強いからだと思う。あるいは、アメリカは民族が多いので、スピーチをする時ハイコンテキストの想定はなく、「言わなくても分かる」ものもない。すべて言語で表しているのだ。それに対し、たくさんの中国の学生たちはどんなに難しい英語の試験をパスしても外国人と交流できない。その問題は一体外国語能力の問題か言語力の問題か。
 今中国の教育者もその言語力の問題を意識して、教育改革を始めていた。私の中学校時代から始まった上海の二期教育改革の教材は、伝統的な宿題以外に個人的な研究プロジェクトも入れて、発表の内容もたくさん加えた。それと同時に、教育システムも改革しないと、教材をどう改革しても教材の内容を学生に受け取られないだろう。上海にある復旦大学(Fudan University)は五年前から、大学入試の改革を始め、四人の大学教授との面接も含め、中国的な特徴(試験)を保留しつつ、アメリカと同じようなシステムを加えた。優秀な学生にとってそのような改革はいい機会だが、そのような検定標準は言語力が弱い学生にとって凄く難しく、しかも負担が大きいのではないだろうか。したがって、私は言語力を高めるために、大学入試を始め、教育制度の改革は必要であると思うが、学生の学力によって違う試験をデザインすることも必要であると思う。
 
 

2012年9月21日金曜日

外国語教育とは何か (for class)


 今週はエスペラント語の発明者の文章を読んだ。エスペラント語は彼が言ったように中立的な特徴があるが、今その言語が出来る人はなかなかいない。それはなぜかというと、エスペラント語の勉強と外国語教育は本質的に違っているからだと思う。
 言語教育は、言葉を教えることではなく、その言語と繋がっている文化を教えることだと思う。一つの例は、外国語を勉強する時教科書以外のメディアをどう選択するかという問題だ。イギリスの英語を勉強する時、シェイクスピア、ジェーン・オースティンなどの詩や小説を選んで、古典を大切にする。アメリカの英語を勉強する時、リンコルンのスピーチやマイケル・ジャクソンの歌詞を選び、自由や平和や平等などの思想を身に付ける。ドイツ語を勉強する時、哲学の本が良く選んで、スペイン語を勉強するとき芸術史の本が良い教材になる。中国語の勉強は高級へ進むと、孔子孟子などの哲学を学ぶことは避けられないだろう。つまり、エスペラント語は文化がなく、歴史、哲学、宗教、芸術などのようなメディアは一つもない。だから、言語としての生命力はない。
 私は筆者と同じように国際共通語の存在が必要だと思うけれども、その言語と繋がっている文化の強さは実際その言語の生命力であると思う。