プチブルの文字通りの意味は「プチ・ブルジョア」、中国語で「小資」ということです。元々資本主義と無産階級の中間にある「小資本階級」の人々をそう呼びましたが、現在では政治的イデオロギーや階級観念とは無関係に使用され、新しい生活スタイルを表す言葉に生まれ変わっているということです。
先週の授業で、日劇の流行とプチブルの形成について考えましたが、私はその二つの関係が因果関係(cause and effect)でなく、中国人の物質的な追求が溢れて来たと同時に日劇で描写された生活に手が届くように思われただけだと思います。
同じようにプチブル生活スタイルと関係あるものは、ブログ、村上春樹の小説、コーヒー、ジャズ、ワイン、カクテル、三時のおやつなど。おしゃれなものだけなのではないかと思いました。このようなプチブル生活は、物質だけに注目し、ゆとり生活を目指していますが、心からの満足ができるのでしょうか。今の中国は経済が速く発展していると同時に、金でなんでも買えるという考え方が氾濫しているのに対し、人々は精神的に満足していません。特に若者世代の人々は社会への責任感が少なくなりつつあるので、他人を助ける行動からの満足感を得られないでしょう。日劇の影響を見ると、ドラマやテレビ番組の選択に気をつけ、もっと若者世代に社会への責任感を宣伝した方がいいのではないだろうかと思います。
「クラマ」は、マンガで名前として出たことがある。「幽遊白書」というマンガで「蔵馬」は読み方が九尾の名と同じように「クラマ」だが、二つの実体は同じ妖狐だ。日本人は妖狐の伝説が好きなのか?たくさんの漫画で妖狐が現れている。「ナルト」の著者岸本斉史もその妖狐の名前で言葉遊びをしたかったようだが、わざわざ「九喇嘛」という複雑な漢字を見つけた。しかし、私達の翻訳グループは、もしその作者が日本語で漢字を使ったら、中国語も同じ漢字を使うという翻訳のルールがある。だから、九尾の名前は中国語で「九喇嘛」(literally, the ninth lama)になった。喇嘛とは、中国語でチベット仏教の僧侶という意味がある。ウィキによると、「ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマを尊崇することから、かつては一般に「ラマ教」(喇嘛教、Lamaism)と呼ばれている。」
九尾=九番目の高僧(こうぞう、famous Buddhist priest)?
へぇぇ!?
笑いものになっちゃうけど、九喇嘛は九喇嘛だろう。フットノートを使わなければならない。翻訳で得るものが時々あるけど、失ってしまうこと(特に名前の意味から)はいっぱいあるのではないだろうか。
言語学のある理論によると、世界の言語はお互いに「距離」があります。例えば、フランス語、スペイン語と英語は近いし、中国語、日本語と韓国語は近いです。西洋語と東洋語のシステムはお互いに遠いので、中国人も日本人もよく「英語が難しいので、どのように頑張っても使いこなせない」と言います。しかし、今の中国人は外国に行かなくても英語がペラペラ話せる可能性があります。なぜなら、興味は一番大切だと思うからです。私はいとこがいる上海外国語大学附属校(Shanghai Foreign Language School)の夏休みの英語の宿題を皆さんに見せたいと思います。
1.5つの本(Alice's Adventures in Wonderland, Treasury Island, Jane Eyre, etc.)を読む。本について5つの感想を書く。
2.英語の歌(Heal the World, We Are the World, You Raise Me Up, etc.)を勉強し、歌ってみる。
3.毎日英語で一番気になるニュースを一つ書く。
4.毎日英語で詩を詠む。
・・・
皆さん、このリストを見てどう思いますか?小学校を卒業したばかりの子供にとって、大変でしょう。いとこは英語の小説を読むことは始めてでした。「どうでもできない」と泣きました。でも宿題は宿題でしょう。私は彼女に「あなたが自分で読まなければならない。書かなければならない。お姉さんには何もできないよ。」と言い、そして彼女に「一つチャプターを読んだら、私にこの話を教えて下さい」と頼みました。[厳しいお姉さん?( ̄▽ ̄)]始めの二つのチャプターの意味がわかった後、彼女はすぐ楽しくなって読み続けました。読んでいる時よく私に「えぇぇ!!ロチェスターは妻がいる!!」と言ったり、「ジェーンはかわいそうねぇ〜」と言ったりしました。結果、一日で「ジェーン・エア」という小説を読み終わりました。
もう一人の例がありますが、私のお母さんの友達の子は、とても伝統的な中学校に入って、夏休みの宿題は三冊の文法の宿題があったそうです。彼女の宿題を繰り返した一日間はその小説を読んだ一日間と比べると、皆さんどう思いますか?
私はいつも戦争中で一番美しいのが女性だと思います。自分の子供たちを守るために意外な強さを見せるだけでなく、人生の選択の前に誰よりも柔らかい心を持っています。前ブログに書いた「歴史への態度」で中国の南京虐殺を描いた映画「ザ・フラワーズ・オブ・ウォー(The Flowers of War)」で、その女性たちが若い学生を助けるために犠牲になってしまったことは史実でした。昔の中国人はそれを「婦人の仁」と呼び、意気地がないということで、悪いことだと思ってしまいましたが、私はそう思いま線。戦争に対し反省をするのは怯弱ではなく、凄く勇気があることだと思います。もちろん自分の国家のために戦うことは当たり前のことでしたが、女性の努力は世界の平和に貢献しました。男性が主導した戦争は世界を壊してしまいましたが、戦時中と戦後の女性は自分の力で壊れてしまった被害者の心を治すように努力しました。その不可欠な努力は女性の美しさを表しているのではないでしょうか。
去年の年末に、中国の张艺谋(チャン・イーモウ)氏が監督を務め、南京虐殺を描いた映画「ザ・フラワーズ・オブ・ウォー(The Flowers of War)」が公開された。日本人はそれを「プロパガンダ」と呼んだが、私はそう思わない。今は私にとって「漢奸」のイメージが変わったので、この映画は人間性を表現していると思う。孟さんという男は自分の娘の「友達と一緒に逃げたい」という願望を聞いた後、漢奸として日本軍の交通部に協力した。お父さんが漢奸になったので、彼の娘は友達に批判され、お父さんを憎むようになった。それを我慢した孟さんは何も言わず、一生懸命頑張って学生たちを助け、最後に日本軍に撃ち殺された。その映画を見て泣いた私は、「自分の家族を守るために漢奸になってしまった人も多かったのではないか」と思った。歴史の問題は多くの人の感情と関係あるから、簡単に解決できない。漢奸や親日派を罰するのはもちろんだが、どの程度まで罰するのか、彼らの家族をどう扱うのかという問題を考えなければならないと思う。