2012年11月12日月曜日

翻案小説について (for class)



先週の授業で翻訳と翻案の区別について考えました。翻案というのは、むしろ訳された言語・文化寄りに元のテキストを編み直すことだと言えます。「菜の花」の例は俳句から英語の詩に訳すことですけれども、実は翻案の作品は元の形にとらわれず、詩、小説、曲、アニメや映画などの形式もたくさんあります。つまり、二次的著作物だと言えます。古代日本は中国の影響を受け、たくさんの詩や小説の翻案を作りましたが、19世紀から西洋の文学の翻案が多くなりました。ウィキペディアの定義によると、日本の翻案小説は外国作品から、その内容やあらすじはそのままにして、風俗・地名・人名などを自国に合わせて翻訳した小説です。とても有名な日本の作家太宰治(だざい おさむ)の一番有名な作品は「人間失格」ですが、彼が書いた「走れメロス」という有名な短編小説もあるドイツ文学作品の翻案小説だと言われています。

それ以外に、私は翻案小説が外国の文学作品を編み直すことに限られないと思います。それはなぜかというと、自国の言語は時間の推移によって発展してきたからです。例えば、中国の「三国志」という小説の撰者は陳寿(233年 - 297年)でした。日本では三国志の翻案作品の小説もマンガもゲームもテレビドラマも大人気です。もちろん日本の三国志に関する作品は「翻案」だと呼ばれていますが、中国の明代(約16世紀)に書かれた「三国志演義」も「翻案」だと思います。千年も経った中国語はたくさん変わったところがあるので、元の「三国志」を読める人はあまりいなかったでしょう。「三国志演義」は当時の中国の一般人向き当時の流行語を使って「三国志」から編み直した翻案小説だと思います。

皆さん、自分の国で昔の小説からもう一度現代語で書き直された文学作品はありますか。もしあったら、これは翻案作品だと呼ばれると思いますか?:)

7 件のコメント:

  1. 面白い点に触れたと思います。翻案は原語から外国語へ訳すことだけではなく、あるメディアから他のメディアへの翻案と時代による翻案もありますね。私は忘れてしまいましたが…

    アメリカの文学作品と言えば…そんなに古い作品がないので、ウェンさんの質問を答えるように、イギリスの文学について話したいと思います。シェイクスピアやチョーサーなどの作品は難しくてもたいていは元の言語に読まれていると思います。時々分かりやすくするために綴りだけが変えられていますが、翻案と呼ばれていません。でも、例えば、シェイクスピアを元にして現代化された映画(例:剣の代わりに銃を使われている話)だったら、翻案と呼ばれるようになるかもしれないと思います。

    でも、べオウルフ(約8-11世紀)ほど古い作品だったら、言語が分からないほど現代的な英語と違うので、「翻訳」になります。(でも、原作を見て、その理由がはっきり見られます:「Hwæt! We Gardena in geardagum, þeodcyninga, þrym gefrunon, hu ða æþelingas ellen fremedon. Oft Scyld Scefing sceaþena þreatum…」)

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    1. そうですね。面白いですが、中国の古典語は略された処は多かったので、現代語に訳す時良くたくさんの言葉を入りました。だから、特に古典小説は翻案の件が多かったです。西洋人の方なら、古典語から現代語まで翻訳する時、忠実的に翻訳しますか?

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  2. 翻訳が盛んに行われる日本ではやはり翻案もかなり多いですよね。小学校か中学校の時か忘れてしまったけど、確かに「走れメロス」を読んで不思議に思いました。しばらく翻訳かと思ったけど、太宰治だと知ったら大驚きで、ウェンさんがいう通り翻案かと思えます。外国からの影響が無い限り、「人間失格」と「走れメロス」の作家が同じだと個人的には考えにくいです。
    しかしウェンさんがいう”一度現代語で書き直された文学作品”は翻案ではないと思います。確かにウェンさんがいう「三国志演義」は翻案かもしれませんけど、例えば平家物語を現代日本語に直すとしても、それは現代語訳であり、場面設定をかえない限り翻案ではないと思います。その代わり、平家物語は特に翻案される長い歴史が有るので、とても興味深いです。一番普及している琵琶法師が語るように書かれた覚一本の他、源平盛衰記など読み物として書かれたものも有るので、やはり目的を考えた上、書かれた諸本が八十種類以上存在するらしいです。その中、翻案と呼ぶことができるものがないと思えない訳でもないのだが、その何種類もある諸本は違う目的の為に再び書かれていたので、この現象は完全に翻案ではないと言えないはずです。宗教を広げる為、話の内容、重点を代えるのは常に行われていたことであり、その上、歌舞伎などの場合、平家物語を引用し、歴史的背景を変えて翻案したものがかなり多いらしいです。
    より幅広い賞賛を得る為、歴史的忠実さをどれくらい犠牲にするか、いつも問題になるようですね。この犠牲があまりにも大きくなって、昔から存在する書籍の元の姿が見失われるのが心配ですけど、インターネットの広範囲的使用によってこの可能性が徐徐に減っているので幸いです。これからも歴史的書籍の保護、研究、発見の成功を期待しています。

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    1. たくみ、コメントしてくれてありがとうございます!
      確かに日本の古典小説を読んだことあまりないから、源平盛衰記と平家物語などは一体翻案か翻訳かと聞かれたら答えにくいです。場面設定を変えなくても人物の対話とかを変えたら翻案だと言えますか。
      また、歴史的忠実さは翻案小説(特に歴史小説)にとって確かにとても大切だと思います。インターネットの広範囲的使用によって見失われる可能性が減っているかもしれないが、その忠実さが失われる可能性も増えてるのではないでしょうか。私はインターネットの乱用にちょっと心配ですね。

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  3. 自分の国で昔の小説からもう一度現代語で書き直された文学作品言えば、やっぱり『源氏物語』ですかねえ。
    谷崎潤一郎、与謝野晶子、瀬戸内寂聴、田辺聖子、林望など有名な作家が『源氏物語』の現代語訳を書いています。
    現代語訳とはいえ、原作の偉大さのためか、一語一句忠実に訳されたような感じのものが多く、そのため、話の内容は面白いのですが、文そのものが時代の流れに対応していない感じがして、個人的には味気なく感じることが多いです。
    ちなみに田辺聖子 訳は、全体の構成を入れ替えていたり、原文の和歌を通常の会話文に直しているなどしているため、「翻訳」ではなくて「翻案」だともと言われているそうです。
    私個人は、現在書き下ろし刊行中の林望 訳が一番好きです。和歌は和歌としてそのまま書いてあって、隣に現代語訳が添えてあり、和歌が持つ味を1つも損なわないように注意が払われているのと同時に、本文では、原作に記載されていない言葉がさりげなく書き加えられてたりして、楽しめます。
    何より気に入っているのは、林望自身が自分の作品のタイトルに「謹訳 源氏物語」と書いていることです。「原作に敬意を表し、つたないながらも全力で謹んで訳しました」と本の表紙を使って宣言しているようで、その潔(いさぎよ)さが好きです。
    ちなみに林望氏は翻訳について、「言葉の背後にある文化が抜け落ちてしまって、イメージがそのまま伝わらないことがあるから、厳密に言えば、文学は母語でしか成立しないのではないかと思う」というようなことをインタビューで言っていましたねえ。

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    1. 鈴木さんのお返事ありがとうございました!
      私は「源氏物語」の偉さを中学校の時に歴史の教科書から勉強しました。和歌を会話文に直していることはやはり翻案だと言えます。和歌の意味だけではなく、リズムなど、味をそのまま翻訳できれば完璧のではないかと思います。やはり翻訳者にとって原作への敬意も自分の能力も大切ですね。
      そして、私は日本語から英語に訳すとき良く言葉を探しにくかったと思いました。「文学は母語くでしか成立しないのではないか」という意見は同感です。

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  4. 私もレブサックさんのようにシェイクスピアを思い出しました。「No Fear Shakespeare]というの本はシェイクスピアの劇を現代的な言葉に変えます。でもその本は言葉を一語一語変えるので、「翻案」より「翻訳」似ていると思います。その一方、レブサックさんも言いましたが、シェイクスピアの劇もよく言葉を変えずに他の時代に入れ替えます。それは「翻案」と呼べますか?多分その「翻案」と「文化的の翻案」は違うものかもしれませんが、「翻案」というのはやっぱり色々な意味がありますね。

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